アン・サリヴァン先生と、ヘレン・ケラーさんの、ラファエロ感。ミケランジェロ感。

アン・サリヴァン先生と、ヘレン・ケラーさんの、ラファエロ感。ミケランジェロ感。

アン・サリヴァンとヘレン・ケラー(Anne Sullivan and Helen Keller)

まるで、ラファエロの絵画のようであり、
まるで、ミケランジェロの彫刻のようだ。

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引用元:NEWSMOV さま

想像させられる。

当時(19世紀後半〜20世紀初頭)の、
写真撮影技術によるものなのか?
写真家の影響なのか?
サリヴァン先生の、意志や指示によるものなのか?

どの写真を見ても・・・

美しい、
気品がある、
神々しい。

とかの表現は、
間違いではない。
が、
それだけではないと感じるものがある。

なぜなら、
裕福な家系のヘレンさんはともかく、
サリヴァン先生は、
気品どころか、
非常に過酷な子供時代を過ごしている。


間違いではなくしている要因の一つに、
ローラ・ブリッジマン(Laura Bridgman)さんの、存在はあるだろう。

ローラ・ブリッジマンさんからは、
一見近寄り難い雰囲気もあるが、
静かな内なる気品を感じる。
髪を綺麗に整え、
服装もしっかりとしている。

LAURA BRIDGMAN

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引用元:Perkins School for the Blind さま

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引用元:Wikipedia さま

ローラ・ブリッジマン(Laura Bridgman)さんは、
ヘレン・ケラー(Helen Keller)さんより、
約半世紀前に、見えない、聞こえない、を、
克服した人物。

ローラさんは、
2才の時に病気にかかってから、
味覚と、
嗅覚も、
失われていた、
と言われている。
もしそれが本当であれば、
三重苦以上の五重苦の状況だ。

そのような幼少期に、
周囲から精神障害者と呼ばれていた、
テニー・アーサさんが近くに住んでいて、
友達となり、一緒に遊んでいたという。

ブリッジマン家は父親の性格はともかく、
比較的裕福な農家だったらしく、

弁護士ジェームズ・バレット(James Barrett)さん、

医師ルーベン・マッシー(Reuben Mussey)さんを通し、

7才の時にパーキンス盲学校(Perkins School for the Blind)に進んだようで、

リディア・ホール・ドリュー(Lydia Hall Drew)さんに出会い、

サミュエル・グリドリー・ハウ(Samuel Gridley Howe)という先生に、
指文字での意思疎通を教わることができた。

ハウ博士はテニーのことを、
「私よりも前にローラには、もっとも愛した先生がいた」と語ったという。

テニーはネイティブアメリカンの手話を使うことができ、
それでローラとコミュニケーションをとっていたという話が残っている。

SAMUEL GRIDLEY HOWE

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引用元:Wikipedia さま

ハウ博士は、フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)さんへも助言をしているような人物で、パーキンス盲学校の、初代校長となっている。

ナイチンゲールさんは、あの、「ナイチンゲール」だ。

イギリスの上流階級に生まれながら、
当時は職業として軽視されていた看護の仕事を、
家族の反対を押し切り、
自ら望んで行ったという。

恵まれた環境や知識、人脈を活かし、
行動と統計学を用いて状況を伝え、
身体を壊してしまうほど仕事熱心な、
看護につくしたナイチンゲールだ。

FLORENCE NIGHTINGALE

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引用元:Wikipedia さま

サミュエル・ハウ博士は、ジュリア・ウォード(Julia Ward)さんという方と、結婚している。

ジュリア・ウォードさんも、富裕層の生まれで、
作詞家、政治活動家としてアメリカでは有名人みたいだ。

日本でも馴染みのある、「母の日」は、彼女の活動がその始まりらしい。

JULIA WARD HOW

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引用元:Susan J. Eck さま

アン・サリヴァンさんと、
ローラ・ブリッジマンさんは、
パーキンス盲学校で、
出会って、
友達になっている。
指文字で、
会話をしていたそうだ。

サミュエル・ハウ先生と、
アン・サリヴァンさんを結びつけたのは、
かの、
アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)さん。

ハウ博士が亡くなった後に、
14才のアンさんが入学しているので、
直接は出会っていないが、
優秀な成績で卒業し、
ケラー家の仕事へ向かう際に、
ハウ博士の、
教育方法を学んだそうだ。

ベルさんは、電話の発明で有名だが、
(正確には特許取得。)
実はお母さんと奥さんが耳の聞こえない方だったそうだ。
母は基本、選べないが、妻は比較的、選べられる。

聾者に求婚する。
それくらい、
聾者に偏見がなく、
聾者に理解があり、
聾者教育に熱心だったのではないだろうか。

ALEXANDER GRAHAM BELL

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引用元:ThoughtCo さま

※後日追記(2021.02.16)

有名人が多く、最初から恵まれている人たちばかりだが、そもそもはヘレンさんのお母さんであるケイト(Kate Keller)さんが、作家チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)さんの、アメリカン・ノート(American Notes)という「本」を読んで、ローラ・ブリッジマンのことを知っていたそうだ。

実際、ケラー家はかなり血筋が良く、裕福な家系だった。

ただし、タスカンビアという土地は地方の田舎であり、最初から周囲に著名人や協力者がいたというわけではない。
家族以外の親戚は、教育の可能性へは否定的だったそうだ。

豊かな資本や資産は当然下級階層よりも優位性を与えるが、母ケイトが読んだ一冊の「本」の存在が、ローラ・ブリッジマンと、ハウ博士の存在を、ケラー家に伝えたのだ。

ベル博士も、ヘレンの父であるアーサー・ケラー(Arthur Keller)さんが耳にした、タスカンビアから遥か彼方ボルチモア(Baltimore)の眼科医、チザム博士の紹介だ。
ベル博士との出会いは当初の予定にはなく、チザム博士の機転によるものらしい。

そしてベル博士から、パーキンス盲学校のアナグノス校長(ハウ博士の娘の結婚相手。義理の息子)への手紙を促され、アーサー・ケラー自身が手紙を書いて送っている。

ヘレンさんが家族や愛情などの環境に恵まれていたのは間違いないが、
ハウ博士や作家ディケンズの「記録」や「本」が、そして幼きローラ・ブリッジマンの遊び相手だったテニー・アーサが、
非常に大事な役割を果たしている。


ローラ・ブリッジマンさんの最初の先生、
テニー・アーサさんは、
英語のスペルも、
未だ見つからない・・・

※後日追記(2019.02.23)

テニー・アーサさんは、アサ・テニー(Asa Tenney)さんだそうだ。

Perkins School for the Blind さまのサイトのPDFファイル ▶︎

Wikipedia さまのサイト ▶︎

どちらがファーストネームなのかは、わからない。

Perkins School for the Blindでは、Asa、Wikipediaでは、Tenneyと呼ばれている。


パーキンス盲学校では、
ソフィア・ホプキンス(Sophia Hopkins)さんという、
サリヴァン先生が心を許した数少ない人物もいるが、
この方の写真も見つからない。

パーキンス盲学校の、職員、寮母をしていた方だそうだ。

※後日追記。flickrで写真が見つかった。

flickr さまのサイト ▶︎

以下抜粋。

Sophia C. Hopkins
Description: Profile portrait of Mrs. Sophia C. Hopkins, who was a friend to Annie Sullivan when she graduated. Matron in “D. House”.
Creator: Collins, Huntsville, Ala.
Date: ca. 1880
Collection: Staff Photographs, Perkins School for the Blind
Rights: Samuel P. Hayes Research Library, Perkins School for the Blind, Watertown, MA

Creator(クリエイター)の項目で、
Huntsville, Ala.(ハンツビル、アラバマ)と記載されている。
写真の台紙にも、Collins(撮影者がコリンズさんという名前だろうか)と、
Huntsville, Ala.とプリントされている。

ただ、日付が1880年となっている。
サリヴァン先生がホプキンスさん宛に書いた手紙によると、1887年8月に7才のヘレンさんと21才のサリヴァン先生たちがハンツヴィルのホテルに滞在し、写真も撮っているが、この時はホプキンスさんは同行していない。

ヘレンさんがボストンのパーキンス盲学校でホプキンスさんと出会うのは1888年だ。
ボストンからハンツヴィルまでは1,500km以上も離れている。
もしかしたら日付は違うのか、偶然なのか。
所有はパーキンス盲学校とある。

Sophia C. Hopkins


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引用元:Flickr さま


サリヴァン先生の、
救貧院(Poorhouse, Almshouse)での幼少期については、
サリヴァン先生自身、
少なくともヘレンさんに対しては、
話す事を、
ためらっていたそうだが、
決して、
恥じる事のない幼少期だと思う。

(ヘレンさんが知ったのは、
ヘレンさんが50才の時。
40年以上、
黙っていたという事だ。

サリヴァン先生は、
ヘレンさんがサリヴァン先生の幼少期について、
書きたいと言っても、それを止めた。

ヘレンさんは、
サリヴァン先生が亡くなった後に、
書いた「TEACHER」でも、
幼少期については書かかなかったそうだ。)

サリヴァン先生は、
嫌だったかもしれないが、
時間と、
多くの人々が、
それを解決してくれている。
解放してくれている。

少なくとも、
僕は、
それを、感じるし、
それは、励みになる。
多くの人たちもそうだろう。

迷わなくて済む。

母が亡くなり、
父に捨てられ、
親戚にもたらい回され、
救貧院(Poorhouse, Almshouse)に入れられ、
弟にも先立たれ、
自分の名前も書けない幼いアンが、
目も見えなくなっていた幼いアンが、
学校へ行きたいと訴え、
学び、成長して、
先生になったのだから、
そういう姿をイメージすると、
迷わなくて済む。

だから、
サリヴァン先生、
こういう事を書くの、
許してください。

(僕は、アン・サリヴァン先生が生まれた日から、109年後の同じ日に生まれた。
子供の頃に知っていたはずなのが、忘れてしまっていた。申し訳ない気持ちがある。)

サリヴァン先生の、
救貧院(Poorhouse, Almshouse)時代、
完全に心を閉ざしていた時に、
食事も摂らず死を意識していた時に、
一人だけ、
気にかけてくれた看護師さんが、
いたそうだ。
その看護師さんも、
未だ、
名前さえ、
確認できない・・・

※後日追記(2019.02.23)

未だ看護師さんの名前がわからない。

幼いアニー(Little Annie)は、
地下牢(The Dungeon)に隔離されていたそうだ。
あまりに可哀想だ。

※サリヴァン先生の出生名は、ジョアンナ(Johanna)。
その愛称が、アン(Anne)、または、アニー(Annie)。

Little Annie さまのサイト ▶︎

書いた人が不明(Author Unknown)で、
写真も全くの別人だが、
具体的で、
妙に説得力がある。

良く似た文章が、
こちらのサイトにもある。

Pastor Bill さまのサイトの、Little Annie ページ ▶︎

地下牢(dungeon)ではなく、
地下室(basement)。
ブラウニー(brownies)ではなく、
クッキー(cookies)。
※厳密にいうとブラウニーもクッキーも、複数枚。

という、
微妙な違いはあるが、
こちらのサイトにも、
Little Annieについての、
記述がある。

News24 さまのサイトの、Little Annie Sullivan ページ ▶︎

事実かどうかはわからない。
ただ、助けとなった「誰か」はいたはずだ。


そして、最終的に、
チャリティー州委員会議長のフランク・サンボーン(Franklin Benjamin Sanborn)さんが視察として訪問した際に、
学校に行きたい、と訴えたと言われている。

フランク・サンボーン(Franklin Benjamin Sanborn) Wikipedia さま(英語) ▶︎

その行き先となったのが、
ジョン・ディックス・フィッシャー (John Dix Fisher) さんや、
ハウ博士、
トーマス・ハンディシッド・パーキンス(Thomas Handasyd Perkins)さんが開いた、
パーキンス盲学校だったのだ。
学校名は、トーマス・ハンディシッド・パーキンスの名前を冠したもので、
設立時にはパーキンスさん自身も、視力を失いつつあったという。

パーキンス盲学校(Perkins School for the Blind )さまのサイト(英語) ▶︎


アン・サリヴァンとヘレン・ケラー(Anne Sullivan and Helen Keller)

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引用元:Raymond Geddes さま

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引用元:American Foundation for the Blind さま

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引用元:alamy stock photo さま

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引用元:alamy stock photoimmyl さま

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引用元:Perkins School for the Blind さま

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引用元:Digital Commonwealth さま

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引用元:Perkins School for the Blind さま

サリヴァン先生が、
ホプキンスさんに送った手紙から、
幼いヘレンとの間で、
当初、
心理的な絶望や、
肉体的な取っ組み合いが、
何度もあった事を知る事ができる。

サリヴァン先生は、意志が強く、嘘をついたりごまかしたりしない。
ヘレンと出会った直後から、愛と従順の重要さについて書いていて、
それを一貫して通している。

また、おそらく、
ミケランジェロが角ばった石の中に人の形を見たように、
荒ぶるヘレンの中にいる人の形が見えていたのだ。

ローラとヘレンの性格の違いを把握し、
柔軟に教育方法を変えながら、
小さな手の平に指文字を綴り続け、
井戸のポンプから流れ出るものがウォーター(Water)であると、
ようやくヘレンがわかってからのその後。
2人の結びつきが生まれた。

それからは急速に信頼関係が深まった。
どの写真を見ても、
ヘレンさんは、アンさんを探し、委ね、
アンさんは、ヘレンさんに、答え、支えている。

目の不自由さと、
運動不足のためか、
サリヴァン先生は、
太っている時期がある。
そういう時期は、
大抵、
ヘレンさんも太っている。
どれくらい行動を共にしていたかを、
想像できる。


ヘレンさんとサリヴァン先生が、
進学のためタスカンビアを離れてからは、
たびたび学費や生活費に苦労している。
マーク・トウェイン(Mark Twain)さんや、
ジョン・スポールディングさんが学費の支援活動をしたらしい。

それでも、アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)さんからの、
年金の申し出を辞退したり、
働いて収入を得ても寄付したりするのだ。

ヘレンの父アーサーの事業が上手くいかなくなった時、
サリヴァン先生への給料が滞ったりもしている。
ヴォードヴィルへ出演したのは、
サリヴァン先生との生活費を稼ぐためだったそうだ。

カーネギーさんからの年金は、
サリヴァン先生が倒れてから、ようやく受けたようだ。

忙しさだけでなく、
カメラのシャッターの眩しさも、
目に悪影響を与えたようだ。

ヘレンさんの学生時代は、
教師の話を聞くことも、
ノートを書くこともできない。

なのでサリヴァン先生が、
教師の話すことを、
指文字でヘレンへ伝え、
教科書の内容も指文字で伝え、
幾何学の図形は試行錯誤の上、
針金を使って伝えていた。
相当な労力を使ったらしい。

かと言って、
ヘレンさんは、
サリヴァン先生に、
完全に依存していたわけではない。

サリヴァン先生が、
亡くなってからも、
30年以上、
活動している。


アン・サリヴァン(Anne Sullivan)

そもそもサリヴァン先生は、
単独でもこんな感じなのだ。

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引用元:Wikipedia さま

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引用元:Perkins School for the Blind さま

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引用元:American Foundation for the Blind さま

「迷いがない目」をしている。
「迷いがない表情」をしている。

いや、
たまには迷いもあっただろう。
それでも、
「肝の座った目と表情」をしている。

(サリヴァン先生は、
普段はサングラスをかけていたそうだが、
写真を撮る時は、
必ずサングラスを外している。
このことからも、意思の強さが伝わってくる。)

※後日追記
サリヴァン先生は、常にサングラスをかけていたわけではなかったという説もある。
映画などによる脚色の可能性もあるらしい。

目に障害を負っていたのは事実で、最終的に失明してしまっている。


ヘレン・ケラー(Helen Keller)

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引用元:MY HERO さま

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引用元:Roaring Girl Productions さま

現時点(2019.02.17)、
この写真がサリヴァン先生と会う前かどうかの、
確認はできていない。

おそらく、
1枚目は、
ヘレンの、「ファントム(phantom)」時代だと思われる。
ファントム感が、
ハンパない。

(日本語のサイトが少ない。
しかも、間違いが多い。
例えば、
サリヴァン先生の生年月日が違っていたり、
サリヴァン先生とヘレンさんの出会った年齢が違っていたり・・・
それを元に、
自論を膨らませられたりしている。。。)

※後日追記(2019.02.23)

1枚目も2枚目も、サリヴァン先生と出会った後に撮った写真だった。
1枚目は、おそらくサリヴァン先生と出会って、最初の夏(1887年8月)、
2枚目は、教わった点字で、本を読んでいる。

1枚目の、より鮮明な写真。

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引用元:MY HERO さま

1枚目と、同日だと思われる写真。

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引用元:Thegolfclub.info さま

髪型やヘアクリップ、ドレスが同じに見える。
同じ日である可能性が、かなり高い。

VisionAwareさまのサイトによると、
犬を抱いている写真は、
1887年8月とある。
半袖、という姿からも、
夏を感じさせられる。

VisionAwareさまのサイト ▶︎

※後日追記(2021.02.16)

残念ながらリンク先のページが無くなっているが、
サリヴァン先生がホプキンスさん宛に送った1887年8月21日の手紙で、
ハンツビル(Huntsville)で過ごした時に、
「縮れっ毛の赤い目をしたプードルを抱かせてヘレンの写真をとりました」と書かれている。
なので、1887年8月の写真の可能性が高いということがわかる。


2人の出会い

サリヴァン先生が、
ボストンから列車で、
約1,200mile(約2,000km)も離れた、
それまでは話はもちろん、
会ったこともない、
ヘレンさんのいる、
タスカンビア(Tuscumbia)のケラー家(Ivy Green)へ到着したのは、
1887年3月3日。

サリヴァン先生は、
1866年4月14日生まれ。
ヘレンさんは、
1880年6月27日生まれ。

2人は、
20才と6才で、
春に、
出会っている。

その日出会った直後に、
サリヴァン先生がヘレンさんに人形を渡し、
指文字で「doll」と綴ったという話も広がっているが、
実際には、
その日の、
その後、
もしくは、
翌日の事のようだ。
玄関ではく、
2階の部屋で。

※後日追記(2020.04.23、2021.02.15)

サリヴァン先生の手紙の中で、
2階の部屋で、と書かれていた。
1887年3月6日の手紙に、「金曜日」の授業と書かれている。

1887年3月3日は木曜日であり、その翌日が金曜日となるので曜日が一致する。
ヘレンさんの自伝にも、出会った日の「翌日」と書かれている。

これらの事から、
「doll、d-o-l-l」の出来事は、1887年3月4日金曜日の史実だということがわかる。

この時のdoll、人形は、
パーキンス盲学校の生徒たちがお小遣いを合わせて買ったもので、
その人形の衣装は、ローラさんの裁縫によるものだそうだ。

また、タスカンビアのケラー家は現在も残され、一般公開されており、
実際の2階の部屋は、映画などのイメージよりもずっと小さな部屋であることがわかる。

HELEN KELLER’S BIRTHPLACE

天井が台形になっていて、屋根裏部屋のような造りだが、
シンプルでセンスが良く綺麗なお部屋だ。

Helen Keller’s Birthplace さまのサイト ▶︎

IVY GREEN


引用元:Wikipediaさま

正面から見ると1階建てに見えるが、屋根の部分が2階の部屋となっている。
敷地は非常に広い。
両親の他に、おばとアーサーと死別した前妻サリーさん(Sallie)との子である、
異母兄弟のジェームズさん(James)とシンプソンさん(Simpson)、
後妻であるケイトの子でヘレンの妹のミルドレッドさん(Mildred)、弟フィリップスさん(Phillips)と家族が多い。

Capt Arthur Henley Keller (1836-1896) – Find A Grave Memorial さまのサイト ▶︎

複数人のお手伝いの人たちとその子どもたちもいて、
マーサさん(Martha)やパーシーさん(Percy)という少し年上の子どももいたそうだ。
濡れたエプロンを乾かそうとしたヘレンの服に火が燃え移った時、
看護師のバイニー(Viny)さんに助けられている。
ヘレンの自伝ではバイニー(Viny)と記載されているが、
サリヴァン先生の手紙では、ヴィニー(Viney)とヘレンの喧嘩についての記述がある。
(※可能性は低いと思われるが、別々の人物の可能性も無いとは言えない。)

お手伝いさんは黒人たちだが、サリヴァン先生はケラー家に到着後、
奴隷問題について話し合いをしているそうだ。
ヘレンとヴィニーの喧嘩の際は、サリヴァン先生はヘレンを叱り、
一緒にヴィニーに謝りにも行っている。

幼きヘレンにはいとこも何人かいて、仲が良い様子だ。
幼きアンは弟ジミー(Jimmie)の死後は、周りに親族は誰もいなかった。
アンは大人になって有名になってからも連絡を取らなかった様子であり、
2人の環境が真逆であることが伝わってくる。


アン・サリヴァンとヘレン・ケラーとポリー・トムソン(Anne Sullivan and Helen Keller and Polly Thomson)

image.jpeg
引用元:American Foundation for the Blind さま

この3人は、
硬い絆で結ばれている。

サリヴァン先生が身体を壊しがちとなり、
支援者からの援助を受け始め、
ポリーさんを雇うことができるようになったそうだ。
最初は指文字を使えなかったが、
上達が早かったとのこと。
映像が残っているが、
素早く自然に、
ヘレンさんと指で会話をしている。

サリヴァン先生が亡くなった時、
3人は一緒だった様だ。

そしてその後、
ヘレン・ケラーが、
日本にやってきた時、
そばにいたのは、
ポリー・トムソン(Polly Thomson)さんだ。

ポリーさんは、
目も見えるし、
耳も聞こえるし、
話すこともできるが、
指文字での会話が、
とても上手。

このように、
自分の後身を育てるということも、
サリヴァン先生の、
「先生」たり得る資質を感じる。


アン・サリヴァンとヘレン・ケラーとポリー・トムソンと、グレート・デーン(Anne Sullivan and Helen Keller and Polly Thomson with a Great Dane)


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引用元:Digital Commonwealth さま

グレート・デーン(Great Dane)は、
とても大きい。
名前は、
現時点、わからない。

※後日追記(2020.05.20)

ポリーさんの苗字も、
トムソン(Thomson)とトンプソン(Thompson)のふた通りある。
英語での動画でトンプソン(Thompson)と発音されていたり、
文字表記されているものもある。

写真の上に書かれている文字は、
おそらくヘレンさんが書いたもの。
この文字では、Thomsonに見える。
サリヴァン先生は達筆であり、
ポリーさんは黒い背景に黒い文字は書かないだろう。

なによりも、
ヘレンさんが別に書いた文字と、
一緒に見える。

というか、

ヘレンさんは、
幼い頃にサリヴァン先生に教わり、
文字も書けるのだ。

最初は全て小文字だったそうだが、
これを見ると、
大文字も書けるようになった事がわかる。

この3人は、
多くの時間を共に過ごし、
同じお墓で、
眠っている。

※後日追記(2020.04.23)

文字はヘレンさんのものでまず間違いなく、
それを印刷時に写真の上に重ねられた可能性がある。

また、パーキンス盲学校のサイトでも、
Thomsonと記載されている。

※後日追記(2023.04.02)

グレート・デーン(Great Dane)は、
ジークレンデ(Sieglende)という名前だったようだ。

この写真は、1918 年頃、ニューヨーク州フォレスト ヒルズの自宅で籐のソファに座っているアン、犬のジークレンデ、ヘレン、ポリーを左から右に示しています。アンは窓の一番近くに座っています。 ジークレンデは彼女の隣のソファに座り、ヘレンにもたれかかる。 ヘレンは右腕をジークレンデに回している。

引用元:The American Foundation for the Blind さま

The American Foundation for the Blind – Religion ▶︎


写真を見ると、
大体みな、
ラファエロの絵画か、
ミケランジェロの彫刻みたいに、
柔らかく、強く、細やかで、美しい。

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